歴史的建造物

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 門司港レトロ地区は、歴史的建造物を修復し、その辺り一帯をきれいにして観光客を呼び込み、街の活性化に繋げるべく整備を進めております。

 客待ちの人力車の向こうに見える赤レンガ造りの重厚な建築物は、旧門司税関の建物です。

 このような歴史的建造物は、当時の時代背景を知る意味においても貴重な資料であり、物言わぬ証言者みたいなものです。

 あわや取り壊しの運命にあったこの建物も、その価値を知る救世主により一命を取り留め、現在は観光の目玉として立派にその役割を果たしております。

以下資料引用

 明治32年(1899)に門司港が一般開港に指定され、その後42年(1909)に門司税関が発足したのを契機に、明治45年(1912)、明治期建築界を代表する建築家・妻木頼黄による指導および建築技師・咲寿栄一により設計された。

 昭和初期まで税関庁舎として利用、その後民間に払い下げられ、事務所ビルとして利用されていたが、後に老朽化のため倉庫として転用された際に、海側両翼部および内部2階の床組から内装に至るまでのすべてが撤去され、建設当初の面影を残さない姿にまで荒廃していた。

 しかし、妻木頼黄監修による建物で、現存するものであること、残された御影石の装飾等から、この建物が優れたものであり、門司港地区に残る多くの歴史的建築群の中でも、明治時代の赤煉瓦として特に貴重なものであることが確認され、門司港港湾地域活性化のため、北九州市港湾局が建物を収得。

 九州芸術工科大学片野博助教授(現・九州大学芸術工学部教授)を座長とする保存検討委員会により、補修・修復・復元による動態保存の提言がなされ、これを受けた市港湾局の主導により、港湾環境整備事業を活用した保存・改修工事が平成4-6年(1992-94)にかけて行なわれた。

 その結果、歴史性を踏まえたうえで、新たな建築として蘇り、多目的市民ホール・観光施設として用いられながら現在に至っている。

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大正ロマン

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 町内のバスハイクで門司港(門司)に立ち寄った際、麦酒煉瓦館なる建物に入ってみました。

 言わばビ-ルの館とでも言うべきところで、ビ-ルの香りと共に、大正ロマンの香りがプンプンします。

 ここで、Hikoさんは大正時代の初期に発売された、ビ-ルの広告らしき物を見つけました。

 大きくサクラのマ-クの付いたジョッキに、ビ-ルがなみなみと注がれ、その中に、なんと大正乙女がスッポンポンになって入っているでは有りませんか。花の付いた桜の小枝まで手にかざしています。

 当時これを考えた人は、いかにサクラビ-ルをアピ-ルしようかとの模索から、こんなアイディアが浮かんだかと思われますが、今なら「やりすぎ」と言う声も聞かれるかもしれませんね!

 しかし、これが大正ロマン、旧漢字ともあいまってなんとも味わいがあり微笑ましくさえ有ります。

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門司麦酒煉瓦館     http://mojibeer-mm.jp/index.html 

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京の祭りの舞台裏

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釘を一本も使わずに縄だけで組み上げてゆく(縄絡み)技法

Photo_2長刀鉾の組み立て 横倒した状態で作業

 

 暑いさなか暑中見舞いと共に、あちこちから夏祭りの便りも届けられます。この程、京都の祇園祭の裏舞台を取材して来たとの事で沢山の画像がコメント入りで着信しました。

 京都特派員の生の声と共に、ここに取り上げてみました。

こちら京都も祇園祭が宵山、山鉾巡行とクライマックスを超えて
終盤に入っています。長年京都に住んでいますが、あまりの人出に未だ
祇園祭に行ったことはありません。専らテレビです
そこで今年は祇園祭の本番前の姿はどんな物かとちょっと出かけて見ました
山や鉾は盛装完成したものは真に優雅壮麗な芸術品ですが
これら伝統を維持してきた町家衆の匠の技があるからこそだと思われます
鉾建て(鉾の組み立て)作業中心に町家をスケッチしてみました
鉾建ては釘を一本も使わずに縄だけで組み上げてゆく(縄絡み)技法を使っています
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立ち上がった長刀鉾 飾付けはこれからです

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山にも造園技法

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登山道は、庭つくりに用いられる飛び石の据付技法がそのまま・・・・・

 九重の登山道には造園の技術が取り入れられています。豪雨で土砂が押し流されたと思われる登山道の改修工事に、造園の飛び石を据え付ける技術が用いられているのを、Hikoさんは見逃しませんでした。

 石の高さといい、人の歩幅を考慮しての据え方といい、まったく庭作りの飛び石をうつやりかたそのものです。

 昨年は無かったように思いますが、近年の温暖化に伴う集中豪雨のために従来の登山歩道が流されたものと考えられます。

 それにしても、石運びから据付まで、足元の悪い中、大変なご苦労だったと想像できます。それに、この辺りには立派な造園技術を持った職人さんも居られるようです。

 階段の石組みにしてもしかり・・・・・

 傾斜の急な階段の設置作業は危険を伴い困難な作業です。それもかなりの距離のことで、容易なことではなかったと思われます。

 登山客の大半は当たり前の様な顔をして、その組まれた石の上を歩いていますが、そこには、陰で支えてくれる人たちの苦労があった事に感謝しなければばちが当たります。

 Hikoさんとしましては、感謝の心と共に、その仕上がり具合に賛辞をも送りたい気持ちで、歩かせて頂きました。

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急峻で長い坂も造園技法の石組みが・・・・・ 縁の下の力に感謝!

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坊がつる賛歌

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温泉宿にかかっていた暖簾には坊がつる賛歌が・・・・・

 九重に行く度につい口ずさみたくなる歌、坊がつる賛歌。坊がつると言うのは九重連山のほぼ中央にある盆地のような湿原の事を指します。

 湿原とは言ってもじめじめした場所ではなく、夏はキャンプも出来る広大な広場のようなところで、湿原植物の宝庫でもあります。

 その坊がつるを詠ったのが坊がつる賛歌で、この程宿泊した温泉宿で、この歌詞を写した暖簾を発見しました。歌詞は九番まであります。

 普段唄われているのはせいぜい四番くらいまでで、Hikoさんも少しは唄う事が出来ます。

 この暖簾、よくよく見ると、端のほうにサインがあり、すがもり小屋一、五四○米と書かれています。どうやら、かって、すがもり小屋のお土産として売られていた物の様です。

 それもそのはず、この温泉場はすがもり小屋の血統を引いた宿のようです。

 すがもり小屋といえば長者原から、法華院温泉に抜ける途中の峠に、九重土産や飲み物を売っていた小屋があり、その後、宿泊も出来る様になったらしい・・・・・

  ここ、すがもり峠は風が強く、数年前に訪れた時には、ややもすると吹き飛ばされそうになった事も有ります。坊がつるに行くには、すがもり越えか雨ヶ池越えのどちらかを選ぶことになり、雨風の時はそれは大変です。

 Hikoさんは先代の小屋しか記憶に無く、脇にはすがもりの鐘と称する鐘が設置してあって、そこを通る度に紐を引いて鳴らした記憶が有ります。

 現在、その場所は休憩所?となっていて、大船側に大きな窓のような開口口があり、吹っきさらしで、避難小屋としての役目は成されていない様です。

 今でも、この鐘はその場所に設置して有りますが、やはりここを通るたびに鳴らして行きます。坊がつる賛歌を口ずさみながら・・・・・・

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すがもり峠側から坊がつるを望む 2005.6.撮影P609011035

ややもすると飛ばされそうになる位の強風 すがもり峠 2003.6.撮影

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現在の「すがもりの鐘」 2006.6.撮影

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道標には、すがもり小屋の文字も・・・・・ 2007.6.撮影

以下 ネット引用

【作詞】神尾 明正
【補作】松本 マサ夫
【作曲】竹山 仙史

1.人みな花に 酔うときも
  残雪恋し 山に入り
  涙を流す 山男
  雪解(ゆきげ)の水に 春を知る

2.みやまきりしま 咲き誇り
  山紅に 大船の
  峰を仰ぎて 山男
  花の情けを 知る者ぞ

3.四面山なる 坊がつる
  夏はキャンプの 火を囲み
  夜空を仰ぐ 山男
  無我を悟るは この時ぞ

4.出湯の窓に 夜霧来て
  せせらぎに寝る 山宿に
  一夜を憩う 山男
  星を仰ぎて 明日を待つ

5.石楠花谷(しゃくなげたに)の 三俣(みまた)山
  花を散らしつ 篠(しの)分けて
  湯沢に下る 山男
  メランコリーを 知るや君

6.深山(みやま)紅葉に 初時雨
  暮雨滝(くらぞめたき)の 水音を
  佇み聞くは 山男
  もののあわれを 知る頃ぞ

7.町の乙女等 思いつつ
  尾根の処女雪 蹴立てつつ
  久住(くじゅう)に立つや 山男
  浩然(こうぜん)の気は 言いがたし

8.白銀の峰 思いつつ
  今宵湯宿に 身を寄せつ
  斗志に燃ゆる 山男
  夢に九重(くじゅう)の 雪を蹴る

9.三俣の尾根に 霧飛びて
  平治(へいじ)に厚き 雲は来ぬ
  峰を仰ぎて 山男
  今草原の 草に伏す


広島高等師範の山岳部部歌が元歌。1952年に九州大学の学生だった作者達が大分県の九重町の九重連山に囲まれた坊がつるの山小屋で作った替え歌が山の仲間に広まったものです。

楽譜もネットより頂いています。
http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/midi/Utagoe.PDF

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縁先手水鉢in萩

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桂太郎旧邸の縁先手水鉢、ここでは水琴窟も仕掛けられています。

 萩の旧屋敷では、縁側の前に水鉢(手水鉢)を中心に取り囲むようにして石組みが成されている、縁先手水鉢をよく目にします。

 本来、書院などにの前に設けられた、手を洗う道具として用いられた物を、軒内の添景としても使われており、庭の景観を良くし、アクセントを付ける意味に於いても重要な役割を担う石組みであります。

 今回、散策コ-スの中でもこの縁先手水鉢を、多く見かけましたので、何点か紹介かたがた挙げてみる事にしました。

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伊藤博文旧邸の縁先手水鉢

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武家屋敷 湯川家にも・・・・・

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途中見かけた武家屋敷で・・・・・

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やっぱりこのお宅にも・・・・・

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豪商の坪庭にも・・・・・

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同じく豪商の庭で・・・・

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豪商 菊屋家の特大縁先手水鉢 金にいとめをつけてない立派なもんです。

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縁先手水鉢の石組み

縁先手水鉢の役石は、濡縁の下に置かれる水返しの蟄石(かがみいし)と従者が水を汲んで差し出すための水汲石、袖垣側に配置される清浄石(覗石)、清掃に使われる水揚石の四石で構成されます。
 この四石の配置は縁側や袖垣の場所で変化します。蟄石は他の三石とは違う種類の石を使うのが原則となっています。(引用)

 今回は歴史を学ぶ傍ら、Hikoさんの本職である庭造りの勉強もさせてもらったと言う意義の有る萩の旅でした。

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先人の知恵

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 萩市内散策コ-スでは、まず入場料の要らない旧家を見学することになり、中で珍しい物を見つけました。なんと川そのものが家の中に取り込んで有るのです。

 ハトバと称し、野外の雨風をよけ、清流を引き込み、ここで炊事等の洗い物がなされたものと考えられます。

 なお、琵琶湖の西岸にある滋賀県高島市の針絵地区に同じ様なものが有り、ここでは呼び名をカバタ(川端)と呼ぶそうな・・・(元工作部員ヨリ)

 まだ現在のように水道が普及してない頃の先人の知恵とでも言うべき物でしょう。

 しかし、雨は凌げるとして、冬の寒風はもろに吹き込んで来るに違いないでしょうが・・・・・

 水道の蛇口をひねると直ぐに水が使える世の中になる前の水仕事は大変だった事と想像できます。

 何時でも使える水道水に、改めて感謝したい思いです。 flair

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砂 紋

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手馴れた手つきで砂紋が描かれています。

 本堂前の植木の手入れも済ませ、掃き清められた境内に砂紋が描かれています。

 この砂紋によって広い境内の空間にアクセントをつけようと言うのです。これは、長年このお寺のお世話をしてきた門徒さんの役目でも有り、短い時間に慣れた手つきで見る見る仕上がる様子は傍で見ていても面白くも有ります。

 Hikoさんの役目? 新米Hikoさんはその下準備、落ち葉などの細かいゴミをエンジンブロア-で吹き飛ばす作業が有ります。これは何時もやってる事で手馴れたもの、こんなところで造園の作業技術が生かせるとは・・・・・happy01

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砂敷きの空間の演出が見事に決まりました。

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お寺の子

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 門前の小僧ならぬお寺の子は生まれながらにして、作法が身についているようです。いや身に着けられていると言ったほうが良いかも知れません。

 先日、志摩半島に旅した折にお寄りしたお寺で見かけた、まだ幼い女の子にも、ちゃんと肩から式章が掛けられていました。

 女の子のそれらしく模様も可愛く、背丈に合わせてチッチャなものです。

 当のご本人は、衣服の一部とでも思っているのか、外そうともしません。良く似合っていて可愛らしくもあります。

 住職の約45分間の法話のあいだ中、パパなる副住職の傍でおとなしく式章をもてあそんでいる姿はなんとも微笑ましくもあります。

 将来的には、このお寺の立派な跡継ぎさんになるかもしれませんね~

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村祭り近し

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 お寺の行事準備の手伝いに行く途中で見かけた山車です。この日はある予感がして車を置いて歩きで出かけました。有る予感とは昨日の記事に関係ありです。

 歩いて15分ほどの所で見かけた光景ですが、何時もはこの道を通る事がないので、見かけることは無かったのですが、祭りの準備で山車が建造中でした。

 毎年の事で、この制作費捻出も大変と言う事で、今回は手作り山車を作っているとか・・・・・・

 おあつらえ向き?に、ここの世話人さんの中に大工の棟梁もおられ、その方が作業場も提供されて、土台など大方の事は成され、後の細かい細工物は地区の人たちが協力し合って作られているそうです。さすがは棟梁sign03 大工仕事はお手の物・・・・

 手作りとは言え、立派なものが出来つつあります。これに人形などの飾り物を取り付ければ完成ということですが、夏の風物詩、村祭りの威勢のいい掛け声が笛太鼓と共に、もう、聞こえてきそうな雰囲気です。

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泡 盛

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 先日、遠方に住む従兄弟が仕事の都合とかで九州まで来たとの事で、ひょっこり尋ねて来ました。手土産にHikoさんのお好みを携えての事です。

 「好きやろHikoちゃん」と、差し出されたのが、これです。

 彼は次の予定が有るといいながら、酒を渡すなりそそくさと次なる行動に移ってしまい、受け取ったものの取りあえずはと、パソコンの机の下に置いておいたのを、すっかり忘れてしまっていました。

 このほど取り出してみたら、泡盛43度古酒と記して有ります。早速、生地で頂きましたが、案外と飲みやすいと言うか、いけますデス。

 ミニカップ、写真のサイズのグラスに半分づつ、3~4杯、いや4~5杯、いい気持ちになったところで、HikoさんのジャンクBOXへの投稿です。

 泡盛の余韻に浸りながらの投稿ですので、読者の方たちにもこの雰囲気が伝わるやも知れません 。 

 念のために、気分爽快では有るが、酔っ払ってはいません。デス  heart02

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吉祥寺藤祭り2008その2

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ここではお猿さんが一輪車に乗ったおじさんを回しております。

 北九州市香月のきっちょさんのお祭りには、Hikoさんが小さい頃は、お化け屋敷やサ-カス、オ-トバイの曲乗りなど大型の見世物小屋が建ったもので、少しばかりのお小遣いをにぎって、入ろうか止めようかと迷った事を思い出します。

 最近はこの見世物小屋も姿を消し、今回はその代わり?に大掛かりな小屋を建てずに行える、お猿の曲芸が見物客の目を楽しませていました。

 何がしかの小道具と、チョットした広場があれば出来そうなお猿の芸。Hikoさんは参拝を済ませる前に、このお猿さんに遭遇しました。

 吉祥寺の境内のすぐ下に、丁度手ごろな広さの公園が有ります。出店が立ち並んだ参道を、境内に向かって歩いていると、その公園で人だかりを見つけました。

 事前情報で直感しました。たぶん、お猿をやってるな・・・・・

 お参りする前に、道草食って、公園の斜面を駆け上がるとやっぱり・・・・・

 見て驚いたのは、お猿をやってるのじゃなく、お猿がやっていたのです。つまり猿回しのおじさんがお猿から回されていたのには驚きました。

 本来、紐の先にお猿が繋がれ、おじさんの指示で芸をするのが普通と考えていましたが、ここでは紐の先を持ったおじさんが、お猿さんに操られているようです。

 最近、世の中はめまぐるしく変化し、使用人をあごの先で使う時代はとうに過ぎ、社長など上に立つ人が自らお手本を示すべく動く時代です。

 やっぱりここでも例に漏れず、古い慣習は破られているようですね?

 えっ・・・ちがった? あ~やっぱり演出でしたか・・・・・・

 それにしても、親方はなんでもやらなくちゃならないんですね~ Hikoさんとことおんなじか・・・・・ coldsweats01   

 ご苦労様でした。

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回すだけでは手持ち無沙汰、ここはサ-ビス精神でおじさんに飛び乗りました。

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得意顔のおじさん、盛んにアピ-ルしていますが・・・お猿さんは飽きたようです。

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吉祥寺藤祭り2008

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まつりの楽しみ、参道の両脇は沢山の出店が立並んでいます

 毎年藤が満開になる頃、北九州市香月の吉祥寺では藤祭りが行われます。Hikoさんが小さい頃は「きっちょさん、きっちょさん」と言って、この祭りを楽しみにしていたものです。

 先を越された友人blogに触発されて、Hikoさんも行ってみることにしました。一頃の様な賑わいはないまでも、いい天気に誘われてか客足は多く、特に感じたのは、幼児を連れた若いママさんが多かった事です。たぶん安産祈願のお礼方々、お祭りに来たものと思われます。

 もう一つ驚いた事に、日本人とあまり変わらぬ顔かたちの外国からの観光客も見受けたことです。いきなりカタコトの日本語で、スミマセン、シャシンオネガイシマスと4人の女性グル-プからカメラを渡されました。

 境内の多くの見物客の中のHikoさんにご指名とはハテ?おとこまえだから?いやそんな事はない、たまたま前に居合わせたからに違いありませんが、カメラ2台それぞれ2~3カット写すと、丁寧なカタコトの日本語が全員からアリガトウゴザイマシタと、帰ってきました。

 一日一善の精神でその一善をこなし何とはなしに爽やかな感じと、藤の香り、ついでにBeerも一杯、これはうまかった・・・・・・

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いきなり鎮西上人の立像にお目にかかり・・・・

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お天気に恵まれ、境内は沢山の藤見客で溢れています。

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幼児を連れた若いママさんも・・・・・

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ビアコ-ナ?からの眺め あと2~3日もすると満開?

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三条大橋と広重

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現在の三条大橋 元工作部員が花街へ繰り出した際に撮影。

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広重作 東海道五十三次の終点三条大橋

 京都から舞妓はんの写真と一緒に古今の三条大橋も送られてきました。

 そこで、絵師の広重なる人物像に興味を持ったHikoさんは調べてみる事にしました。

広重は、江戸の下級武士・八代洲河岸火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生、幼名徳太郎、のち重右衛門また徳兵衛とも称す。幼い頃から絵心が勝り、文化8年(1811)(15歳)頃、はじめ初代歌川豊国の門に入ろうとしたが、門生満員でことわられ、歌川豊廣(1773年?-1828年)に入門、翌文化9年(1812年)に歌川廣重の名を与えられた。

11年後の文政6年(1823年)には、家業の火消同心を辞め、絵師を専門の職業にした。

天保元年(1830年)一幽斎廣重と改め、花鳥を描いていたが、文政11年(1828年)師の豊廣の死のあとは風景画をおもに制作した。天保3年 (1832年)、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。

安政5年に没するが、死因はコレラだったと伝えられている。

 と言う事ですが、果たして広重も花街には繰り出したのでしょうか?時代背景はハテ? 

 今回、思わぬところで広重なる絵師の事を少しばかりでは有りますが、勉強したHikoさんです。 coldsweats01

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舞妓はんと芸妓はん

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歌舞練場内のお茶席で・・・

 note ぎお~ん こいし~や~ だあらありいの~帯よ~ notes heart03

 と、唄われた祇園・・・・・

 京都の祇園花街へ舞妓、芸妓さんの踊りを観に行ってきました。

 祇園花見小路の甲部歌舞練場で上演されている【都踊り】です
舞台そのものは撮影禁止で画はお届けできませんが、祇園界隈の雰囲気は
味わって頂けると思います。

 いつも情報提供のしてくれている京都特派員が、このほど元勤めていた会社のOB会で、花街へ遊びにいかはった由。上記のコメントと共に写真が送られてきました。

 舞妓はんと言えば、京都の顔と言っても過言ではないと思いますが、芸妓はんと舞妓はんの違いは・・・・・?

 そのあたりもネット検索で調べて見ましたので、ジャンクBOXに取り上げて見ました。

Photo_6 舞妓さんの始まりは、今から約300年前、当時茶屋で働いていた「茶汲女」や「茶点女」が始まりだと言われています。最初は参詣人にお茶をふるまう程度だった水茶屋も、やがてお茶がお酒になり茶汲女や茶点女が歌や舞を見せるようになり、永い年月を経て現在の舞妓、芸妓になったと言われています。

 左上のかわいい方の写真が舞妓はん、右下が芸妓はん・・・

やっぱり、芸妓はんは貫禄がおありどすな~

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舞妓さんと芸妓さんの違いはわかるでしょうか?基本的に芸妓さんになる前の修練期間(5~6年)を一般的に「舞妓さん」と呼び、この期間にひと通りの芸事を習得します。いきなり芸妓さんになることはあり得ないのです。また、舞妓になる前の半年~1年間を「仕込みさん」と呼び、この期間にも芸事の基本的な稽古、京言葉や行儀作法などを学びます。現在、京都には約300人の舞妓さん、芸妓さんがいると言われていますがこの数は年々減ってきています。

京都には、上七軒・先斗町・宮川町・祇園東・祇園甲部の五つの花街があります。ここが、舞妓さんや芸妓さんの生活・仕事の場所であり、夜の京都を代表するスポットといえます。

 と、この様な事のようです。

 それにしても、祇園界隈へお遊びに行かはるお人が羨ましいおすえ~

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一力茶屋(置屋総元締めのような・・・)

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祇園花見小路の入り口

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祇園甲部歌舞練場

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無残な街路樹剪定-2

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北九州市星ケ丘付近のトウカエデ、辛くも剪定を免れ、きれいな新緑が映えています。(2008.4.20)

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切られている場所からすぐ近くの(北九州市金剛)かろうじて剪定を免れたトウカエデ。(2008.4.20)

 新緑の時季を迎えて、近くを走る生活道路の沿線に植えられた街路樹のトウカエデも眩いほどの若葉をつけ、道行く人々の目を楽しませてくれるようになりました。

 その楽しみを無残にも踏みにじるような行為が行政指導の下、平然と行われているのに、Hikoさんはその怒りをblogにぶっつけたのは、つい一月ほど前(3月27日付け)の事です。

 無残にも切り刻まれた街路樹を改めて見てみると、この一番いい季節のトウカエデは枯れ木同様に、まだ、その新しい芽すら出揃っていない状態に、改めて怒りがこみ上げてきました。

 前回は、役所に言ったら、担当職員から「真摯に受け止めています」との言葉が返っては来たものの、はたしてその対策はとられてるのか? 莫大な費用を投じて切られてしまった街路樹の惨めな姿には心が痛みます。

 何のために切ったか・・・・・・? 

 何がしかの理由があるにしろ、これは少しばかり、いや、大いにやりすぎの感は否めません。つい、年度末の予算消化が優先で、樹形はどげんでもよかと、勘ぐられても仕方のない行為です。

 器物損壊の四文字熟語が脳裏を過ぎります。

 剪定するなら、その木の持つ樹形に合った剪定を・・・・・これは前回にも書きましたが、Hikoさんは腹の虫はおさまりません。 angry thunder annoy annoy 

 本来、癒しを提供するはずの樹木の管理を、逆に怒りと嘆きに変えてしまう行政のあり方には問題が有ります。

 前回は北九州市内外の読者の皆様からメ-ルや何かで、沢山の怒りのコメントを頂いていましたが、改めてこの惨状を見てもらうべく、続編を掲載する事にしました。

 Hikoさんは、行政のいい加減なやり方に、やり場のない怒りを覚ています。 

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せっかくの樹形を、あたかも電柱みたいにされてしまった金剛付近の可愛そうな街路樹(2008.4.20)

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せっかく大きくなった木の、きれいな樹形をもチンチクリンに・・・・・(金剛付近 2008.4.20)

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なぜ?ここまで切り詰めなけりゃ~ならないのか不思議でたまらん!(北九州市金剛2008.4.20)

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今時季、本来ならばきれいな新緑に目を楽しませて貰えるものを、無残!(2008.4.20)

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地域の人も、さすがにこれには呆れ顔  poutthunder

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鉄瓶と五徳

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五徳が有っての鉄瓶、 五徳の上にに鎮座ましました鉄瓶

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酒の燗けと思われる容器が付いている五徳

 タイトルは違っても写真は昨日の物?いや、そうじゃないもう一枚のカットですが、同じ様な物です。

 鉄瓶に無くてはならないパ-トナ-が五徳です。この五徳にもいろんな形のものが有りますが、Hikoさんの物は少しばかりこみ入っています。

 サイドに酒のお燗をする、燗つけ器とでも言うべき器が備えられております。

 水を入れて燗瓶を入れておくと、炭を炊けばその熱で自然に酒の燗がつくという優れもの!

 これだけ一品で買うとなると、かなりの値が付きそうですが、Hikoさんの物は、火鉢を買ったときにおまけで付けてくれた物です。

 これがなけりゃ~せっかくの鉄瓶の湯も沸かせないと言うしろもの、無くてはならない相棒です。

 そこで、五徳とは何ぞや・・・・・?

 引用に頼るより他はありません・・・・・

五徳(ごとく)とは、

  • 火鉢や囲炉裏など炉の中で鉄瓶や鍋などを乗せるための器具。本項で詳述する。
  • 儒教用語「五常の徳」の略称。儒教においては「仁」「義」「礼」「知」「信」の五つの徳をいう。

概要

円形の輪に3本または4本の足が付いた鉄や真鍮、銅製の架台である。鉄瓶を使用するときに欠かせない。現在のガスレンジや電気コンロに使われる架台も五徳と言う。金属不足の戦時中は陶器製のものも多く見られた。丑の刻参りをおこなうときは、頭上にのせる。

語源

字を見ると一見意味が有りそうな感じであり、無理に五つの徳を上げる向きもあるようだが語源は次の通りである。昔から囲炉裏において鍋や釜で煮炊きをするときは、自在鈎を用いるか又は五徳を用いる。五徳は初めは3足で、輪を上にして用いた。これは古くは竈子(くどこ)と呼ばれたもので、古代の鼎に由来するものである。五徳が発生したのは安土桃山時代と思われる。すなわち、茶道の始まりと共に室内で用いる小型の炉「茶炉」又は「風炉」があらわれ、この時竈子を今までとは逆にし、爪を上にして使われるようになった。これにより「くどこ」を逆にして「ごとく」と呼び、五徳の字を充てたものである。形もいろいろなものがあり、千利休時代の與次郎作で爪が、まむし頭、長爪、牛爪、方爪などが造られたという。

 と言う事の様な事のようです。Hikoさんもネットのお陰で随分と物知り??になりました。かな?

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鉄 瓶

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本日の主役は南部鉄器の鉄瓶です。

 近くのス-パ-でフリ-マ-ケットをやっているとの情報を得て、野次馬根性も手伝って早速行ってみる事にしました。

 フリ-マ-ケットは二日前から行われていたらしく、この日は最終日との事でした。開店早々でしたが、雨にもかかわらず人出はまずまず・・・・・・

 休日と言う事も有って、暇人と言うか物好きというか、朝っぱらから沢山の人達が出て来て、掘り出し物をブッショクしています。

 Hikoさんも人ごみに紛れて、あれこれ見て周り、足が止まるところは、やはり中古の工具とか刃物の売り場です。刃物と言っても物騒な物じゃなく、仕事に使えそうな物・・・・・・

 あれこれ見ているうちに、予てから欲しいと思っていた鉄瓶が目に付きました。本当は古い値打ちのある物がいいに決まっていますが、ここは駆け引きありのフリ-マ-ケット、目利きに自信のないHikoさんは冒険は禁物です。

 南部鉄器らしい鉄瓶を見つけ、昭和の初期?の物のようで、大きさも大きめだし丁度いい、これに的を絞り交渉の始まりです。最終日でもあり、相手も持って帰るよりは、安くても手放しそうなところを掴まなくてはなりません。懐具合との相談もあり、納得の価格で買い取る事にしました。

 持ち帰って早速きれいに洗って、以前、熊本の骨董屋で手に入れていた、火鉢に炭を入れ、架けてけて見ると、これがなかなか様になっています。

 まだ肌寒さを感じる雨の休日、火鉢に炭、そして鉄瓶は、なかなか風流です。夜ともなれば横の燗付け器で、燗酒もいいですね~

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フリ-マ-ケットは見る楽しみ、駆け引きもまた楽し!

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奉幣殿のねむり猫

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英彦山 奉幣殿の眠り猫

 日光東照宮のねむり猫は有名ですがこれは彫刻です。英彦山の奉幣殿には本物のねむり猫が居ました。いつの間にかここに住み着いたらしく、丁度境内の真ん中辺りに陣取り、暖かい日差しの中、居眠りをしています。すぐ横を歩いても微動だにしません。

 東照宮の眠り猫は、江戸時代になり、戦いも無くなり、猫もすやすやと眠り、雀のような弱い立場の生き物も安心して暮らせる、まさに平和な時代を象徴する彫刻であると言われています。(ここは引用です)

 と言う事は、この奉幣殿の本物眠り猫は平和の使者とでも言うのでしょうか。ここで、この猫にめぐり合った事自体、有りがたい事かも知れませんね~ scissors

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日光東照宮の眠り猫(ネットより拝借)

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ひこさんガラガラ

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 「ひこさんガラガラくちばっかい」という言葉は、筑豊地区やその周辺地域の人たちには昔から馴染みのある響きと思いますが、その「ひこさんガラガラ」にまつわる話を英彦山の文字の由来などと共に、Hikoさんが聞いてきました。今回はその「ひこさんガラガラ」について・・・・・・

 ひこさんガラガラの元祖ともいうべき形は、土鈴に藁を通したものが五個束ねてある物が基本形で、他に大きな土鈴や、天狗をかたどった物などが有ります。

 この基本形のガラガラはそれぞれ意味を持ち、赤、青の色付けは、赤は太陽、青は水、粘土で出来ている本体は土、そして5個束ねてあるのは、五穀の米、麦、粟、黍(きび)、豆、を表しています。つまり五穀豊穣を願っての物のようです。

 この「ひこさんガラガラ」は本来、田んぼの隅などに豊作祈願として掛けられていたものの様ですが、現在では家の玄関にも掛けて魔よけとして使われています。今でも農家では田んぼと家に、二つ買って行く人もおられるそうです。

 これは、英彦山花公園電車運行部のAさんが、英彦山のPRも兼ねて、英彦山の美味しい水で入れたと言う無料のコ-ヒ-を勧めながら、元彦山小学校の教室で話してくれたものですが、彦山小学校の校舎は現在、スロ-プカ-の駅舎として再利用されています。

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地域行事

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大ホ-ルでは芸能活動発表会

 我が町も都市化が進み人口もそれなりに増加して、色んな活動も活発になり、その活動の成果を発表すべく催しが行われました。

 野外では持ち寄りの品物を展示即売し、飲食コ-ナ-も設けられ、室内展示場では、書、絵画、いけばな、写真等などの力作展示がしてあり、また、大ホ-ルに於いては芸能各種の発表会と、この周辺の地域活動の証が勢ぞろいしました。

 残念ながらHikoさんは、この発表会には出展しておりませんが、身近な知人の作品やら芸能やら・・・・

 けっこう楽しい時間をすごす事が出来、また新しい発見もありました。

 感想を求められれば、やはりここでもウ-マンパワ-爆発impact、大半がご婦人方の世界でした。Hikoさんはじめ男性諸氏はもっとオヤジパワ-を出して活躍しなくっちゃ!!

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フリ-マ-ケットも出現

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絵画も展示して・・・・・

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いけばな教室の作品発表も・・・(男性会員勧誘も有ったりして・・・)

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古いアルバムより中3の時

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Hikoさん中学3年生、 大阪城で修学旅行記念写真 昭和31年撮影のもの

昨日は60年前の写真を掲載し、つづいて約50年ほど前の写真ですが、この写真を昨日のものと比較して見ると、ここ10年足らずで戦後日本経済の復興がいかに著しいかが分る様な気がします。

戦後約10年にして、この通り、学生服もちゃんとしたものが入手できるようになり、皆、身なりもきちんと整っています。

胸に貼り付けた名札が、ダサイ?と言うか初々しい・・・・・・

この写真、集合写真にしては余分な部分がかなり多すぎるようですが、多分、大阪城の天守閣一杯に入れようとの配慮からそうなったものと考えられます。

それにしても、上も下の部分も余りすぎると思いますが・・・・・・

そこで、Hikoさんが気をきかせて、ちょっとトリミングして見ました。少々四角目になりましたが、この方が人物を見るにはいいかと思いまして・・・・・・

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トリミングで、余分なものを切り取とれば人物も見やすくります。

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60年前の写真

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古い写真の魅力を探るべく60年前の写真を改めて掘り起こして見ました。これは、Hikoさんが小学1年生の時のクラスの記念写真ですが、終戦直後の物資が極めて不足していた時代のものです。

この頃の子供達の着ている衣類は、それぞれ思い思いで、制服などは有りませんでした。足元を見ると、殆どの者が裸足です。

それでも、皆んなきちんと整列して、子供らしい活力溢れる明るい顔をして、次代を担うたくましささえ感じます。

写真の技術も確かなもので、パソコンでかなり拡大して見ても、その像は崩れることなく、しっかりしていて一人一人の表情が伺えます。

この当時の写真屋さんはレンズや機材には随分お金を掛けていたのでしょう。

こうして改めて見て見ると、この一枚の写真は、そのときの時代背景をもしっかりと伝えてくれる貴重な資料と言えそうです。

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美術館へのアプロ-チ

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北九州の美術館にミレ-の「落穂ひろい」が来ているとの情報から、早速行って見る事にしました。

本物の絵画に触れる楽しみで訪れた北九州市立美術館も久しぶりです。

この美術館の建物自体、斬新なデザインで建設当時はチョットした話題になった程で、過ってHikoさんの作品も一度だけ、二科展での写真の入選作がここに展示された事もあるとの思いで、懐かしくも有ります。

展示絵画は思いのほか多く、ミレ-のほか、モネ、ピサロ、セザンヌ、ゴ-ギャン、ゴッホなど、学校で美術の時間に習った有名画家の作品も合わせて展示しています。

おもに農業労働者を描いた作品が大半を占め、日本人画家も加わり、見ごたえのある絵画展でした。

近代絵画に見る自然と人間像を堪能した思いです。

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主役の登場

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節分の主役はなんと言っても、鬼と福です。Hikoさん宅でもささやかながら節分行事を執り行うため役割分担を決めますが、人材不足のためワン公も重要な役に就いてもらうことになります。

適材適所、ここはやっぱり鬼に扮してもらう事にしましたが、鬼の面を着けるのにも一苦労です。

面を着用したかと思うと、ブルブルと払いのけ、その繰り返しでやっとの思いで着けて、今度はHikoさんが大声で「鬼は~そと~」そのまま豆を浴びせかけます。

ワン公にとってはたまったものではありません。無理やり面を着けられ、おまけに豆をぶっつけられて・・・・・・

たまらず、そのまま外に飛び出していってしまいました。

これで、鬼は退散、こんどは「ふくは~うち~」福を呼び込みます・・・・・・

これで我が家の節分行事は滞りなく執り行われ、今年一年間、無病息災は間違い無いでしょう。

撒いた豆は拾い集めて、年の数ほど食べるのが慣わし・・・・・

そんなに沢山食べきれないHikoさんのお年は?

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